2004/1/1
2004 メディア・市民力・安心・平和
新しい年がスタートしました。
2000年1月に林が出版した『安心報道』(集英社新書)では、「市民のためのメディアに」という章で、ドイツの社会心理学者、エーリッヒ・フロムの『希望の革命』(紀伊国屋書店、1970)から次のような一節を引用しました。
「紀元2000年という年は、人間が自由と幸福を求めて努力した時代がめでたく終わりを告げ、幸福の頂点に達する年ではなく、人間が人間であることをやめ、思考も感情も持たない機械に変わってしまう時代の始まりであるかもしれない」
このなかでフロムは、21世紀の入り口は、核戦争で地球が破壊されるとまではゆかないにしても、人間が機械の歯車のように無力な存在になる道と、逆に、人間主義(ヒューマニズム)と希望の復活に向かう道の「別れ道」にさしかかっているという認識を示しています。ちょうどベトナム戦争に世界的な抗議が広がった時代の著作で、日本では大阪万博で浮かれていたころです。
このような時代認識のもとに、林は『安心報道』のなかで「私たちは巨大技術によってつくりあげられた巨大メディアに、じわじわと支配されつつある」と指摘し、一方で、人々は「観客」としてメディアに接し、フロムがいうように「受動性」と「隠された倦怠」を強めていると強調しました。
21世紀にはいってフロムの予言、林の指摘(僭越ですが)は、残念ながら、あたりつつあるように思います。
「イラク戦争」は異例の従軍記者を配して、戦争を仕掛けた側からの映像が
世界のメディアから発信され、人々は「観客」として、戦争の本質を考える機会も与えられないまま、日本では「イラク復興」の名のもとに、専守防衛の自衛隊が重装備で現地に派遣されようとしています。「平和国家・日本」の大きな曲がり角であるにもかかわらず、メディアを通じて人々は「受動性」と「倦怠」を強めているのではないでしょうか。「平和」に対する感性を奪われつつあるのではないでしょうか。
こんななか、ことしの元日、小泉総理は紋付袴姿で靖国神社に参拝しました。正月に正装して神社に参拝するという、日本の伝統的儀式の形をとりながら、異例の正月参拝をやってのけました。メディアはその姿を忠実に伝え、一方で、中国や韓国の“遺憾”の抗議コメントを羅列しました。この報道は、もうあきあきではないでしょうか?メディアの主体性はどこにあるのでしょうか?
こうして人々の「感受性」や「感性」はメディアによって削ぎ落されていくのです。こわいことだと思います。いかにも“客観”報道のようにみせながら、「観客」に「受動性」と「隠された倦怠」をおしつけているのです。
こういう時代状況、メディア状況のなかで私たちは「市民感覚」を研ぎすませる必要があります。「生活者感覚」と言ってもいいでしょう。
長引くデフレによる不況感、テロやイラク戦争のような危機感、そこへもってきて、イラン大地震のような不安感などなど、新しい世紀の先行きは非常に不透明で、希望をもてない状況がありますが、私たちは「市民」としての「生きる力」を大切にし、「生きててよかった」「暮らしてよかった」という社会を、子や孫の世代のために構築していかなければなりません。
自治体もそうです。「有事」になると「自治」を放棄させられ、戦争に巻き込まれていきます。「地方分権」と言いながら、財政難を理由に、さらに厳しい財政運営を余儀なくされます。そのしわ寄せは「市民」に押しつけられるのです。
私たちは、メディアが伝えることを鵜呑みにせず、地域で生活をしている「市民」としての生きる力を磨き、安心して暮らせる安全で平和な社会をつくっていく責務があります。微力ですが、ことしも全力でがんばります。